19世紀の錬金術師 Henri de Ruolz(アンリ・ド・リュオルツ)

2020年8月14日出版

オペラ作曲家から化学者への転身

デュマにはフィレンツェ旅行の副産物『ラ・ヴィラ・パリミエリ』という小説がある。その序文として書かれた挿話が「19世紀の錬金術師」(1842年)である。書き出しは「私には、過去6~8年の間に2つの異なる方法で有名になった友人がいる。しかし、差し当たり、私は彼を単に友人と言っておく」となっている。

実は、これは『コリコーロ』のなかでChapitre VII Grand Gala. グラン・ガラのタイトルで話題になる新人フランス作曲家Henri de Ruolz(アンリ・ド・リュオルツ)のことである。子爵の家柄に生まれながら親が破産したためにやむなく仕事を見つけざるを得ず、音楽を諦めて化学の研究に進み、後にフランスの鉄道の線路の材料でその名を残したという。

彼についてはYonel Buldrini (Février 2008)のL’or, l’argent… et l’opéra ! Hommage au comte Henri de RuolzというPDFで記事が書かれているので、興味のある方はお読みください。Dumasの作品への言及も当然あります。

では、Grand Galaの本文のほんの一部を掲載しましょう。アレクサンドル・デュマはご存知のように1829年『アンリ三世とその宮廷』でフランス演劇界に彗星のように登場しましたが、リュオルツのナポリ・オペラ界への登場はそれと同じような新人の登場ということで、興味津々でしょう。アンリ・ド・リュオルツ『ララ』1835年初演。

Chapitre VII グラン・ガ

だから、私が会った時この哀れな同胞がどんな状態だったかと尋ねては困る。彼は自分が医者に余命わずか七、八日と宣告された男だと考えていた。実際は、彼の立場を考えると、彼を救えると約束できるのはインチキ祈祷師(シャルラタン)ぐらいのものだったということだ。それでも私は慰めにもならない他愛もない慰めを言ってみた。しかし、私があれこれ助言した言葉に対して、彼は一言で答えた。「グラン・ガラですよ!あなた、グラン・ガラ!」私は彼の手を取った。すると彼は熱があった。私はトルコ・キセルを喫っているコンサートマスターに向かって、ほほえみながら言った。「譫妄が始まったよ」

「いえ、いえ」とフェスタは口から琥珀のパイプを重々しく取り除いて言った。「彼は全く正しいです。グラン・ガラです!グラン・ガラ!先生、グラン・ガラなんです!」

それで、私は、ロウソクの蝋を使って片隅で玉を作っていたデュプレのところに行き、私は「おい、この連中はみんな頭がおかしくないか?」と目で言った。彼はナポリ人の誉れにかけて私のパントマイムを瞬時に理解した。

「いいえ」と彼は鼻に蝋の玉を当てて私に言った「いや、彼らは狂っていませんよ。あなたはグラン・ガラを知らないのですか?」

私はそっと出てきた。辞書を取りに行って、Gで始まる文字を探したが、何も見つからなかった。

私はもう一度戻って「グラン・ガラの意味を説明してくれませんか?」と言った。「その意味は」とデュプレは答えた。「その日、劇場は千二百個のロウソクで目が眩み、煙で歌手の喉がやられます。」

中略(リハーサルの内容が逐一報告される)

私は劇場からとても感動して帰ってきた。せいぜい生徒の習作だろうと高をくくっていたところ、大家のスコアを聞いて驚いた。人はいやでも作者を見て作品のイメージを作り上げるものだが、残念ながら作品と作者を見ていながら、ほとんど常にその作者自身が自分で作り上げる作品評をどうしても信用してしまうものだ。さて、リュオルツは私が今まで見た中で最も単純で最も控えめな子供だった。知り合って三ヶ月間、私は彼が他人の悪口を言うのを聞いたことがなかった。概して、私は成功した人間よりもまだ何もしていない若者の方にはるかに多くの自尊心を見いだしたものだ。そして、逆説をお許しいただければ、若者の慢心を治すには成功以外にないと信じている。だから初公演当日はもっと自信を持って待っていた。彼が到着した。

中略(デュマによるグラン・ガラ当日のオペラ『ララ』の初演の劇場中継である)

最後の曲はタッキナルディが歌ったロンドであった。それは胸を引き裂くように表現された。ララの愛人は、虚偽の告発によって彼を破滅させようとした後、毒を呑み、ララの足元で許しを求めて這い回って死んでいく。そのような状況では、マリブランやグリシなら声のことはほとんど気にせず、感情に重きを置いただろう。タッキナルディは逆の方法で成功した。彼女はあれだけ純粋な音を伸ばし、あのように華麗な音を噴き出させ、あれほど困難なルラドを歌って気絶した。それに対して王はもう一度拍手し、劇場も彼の模範に従った。今回は著者が戻ってきていた。どこかから彼を連れ戻して、最後の瞬間に彼に付き添っていたドニゼッティの腕の中にいた。デュプレは彼を片方の手で、タッキナルディをもう片方の手で引っ張って、彼はステージに導かれたというより引きずり出されたのだった。

中略

1842年。

私の予想は間違っていなかった。リュオルツ子爵は、ナポリ・オペラでのようにパリ・オペラで成功した後、音楽のキャリアを完全に放棄し、優れた作曲家であったのと同じく優れた化学者になり。学会が現在盛んに取り組んでいるボルタの電堆の応用によって鉄を金メッキするあの素晴らしい発見をしたのである。