「家族計画」planning familialについて

Recherches & Travaux 71/2007所収、Joung-Rae Ji 氏のLa reconstruction sartrienne de la vie de Flaubert 1

「サルトルによるフローベールの生涯の再構築」は、最初に取り上げるにふさわしい論文だろう。著者は高麗大学仏文科の韓国人研究者らしいが、まずそれが頼もしいと感じた。日本ではまだサルトル研究者は少ないけれどいるが、韓国でサルトル研究者がいることだけでも新鮮な驚きがある。さて、Joung-Rae Ji はサルトルのフローベール論の2大仮説、「planning familial 家族計画」と「planning névrotique 神経症計画」が、どちらもその根拠が疑わしく、全体としてサルトルの解釈の基盤が揺らぐと主張している。この2つの仮説の「planning familial 家族計画」についてまず論じてみたい。

フローベールの伝記作家といえば、ルネ・デュメニルRené Dumesnil Gustave Flaubert, l’homme et l’œuvre, 1932 2『ギュスターヴ・フローベール、人と作品』(1947年に改訂新版が出ている)らしく、サルトルがもっとも参考にした伝記でもある。次に上げる表はJoung-Rae Ji 氏が丁寧に作ってた2つの比較表であるが、この表には以下の2つの報告を対照している。

(1)サルトル仮説の根拠として、デュメニルが提供している結婚直後のフローベール家の子どもたちの誕生と死亡の経過

(2)リュシアン・アンドリューLucien Andrieu, « Les maisons de la famille Flaubert dans la région rouennaise »(「ルーアン地域のフローベール家の住居」Les Amis de Flaubert, n° 30, mai 1967, p. 9-10. 3

この表によると、1812年に結婚したギュスターヴの両親が1818年半ばに市立病院に住居を移すまでの6,7年はリュ・デュ・プチサリュに住んでいたという。デュメニルの伝記ではその間に長男のアシルが生まれ、2人の男子が生まれたが相次いで満2歳以内に死亡している。

ルシアン・アンドリューの調査によると、1817年末にフロベール一家がプチ=サリュ通りを転出したとき、フロベール夫妻と長男アシル、そして女児が含まれていたという。「サルトルの主張に反して、彼らが最初の住居にいた間は一度も喪に服さなかった。市立病院かその近くの住居に転居した後に、6人の子供のうち3人を失うのだ。フローベール夫人をめぐるサルトルの仮説はこれでぐらつく。」こうしてJoung-Rae Ji 氏はサルトルのフローベール家の「家族計画」という大きな骨子が根底から崩れると考えた。というのも、サルトルが引用しているフローベール夫人の次の証言はアンドリュー氏の喪に服さなかった7年間にふさわしいと考えたからだ。

彼らは1812年2月に結婚し、リュ・デュ・プチサリュ8番地に一家を構えた。彼らはそこに7年間とどまらねばならなかった。コマンヴィル夫人は書いている、「私が幼かったころ、祖母は私を連れて(その家の前を)通りすぎることがよくあったが、窓のあたりを眺めながら、祖母は、ほとんど敬虔とも言える重々しい声で告げたものである、『ごらん、あそこで私の一生のうちで一番楽しかった歳月が過ぎて行ったんだよ』」。 4

コマンヴィル夫人はギュスターヴの妹のカロリーヌの娘、つまり彼の姪であり、祖母とはフローベール夫人、つまり彼の母親のことである。

サルトルはこの7年間とその後の一家の生活についてデュメニルの証言に従って、次のように解釈した。

われわれにとっては、この証言は第一級の重要性をもつ。七年間の幸福。その後では、不幸はただちに始まりはしなかった。中途半端な状態があり、だがわるい兆しのようなものが重なり、それにとりわけ、もはやそこには本当の幸福感がなかった。一八二年から一八一九年にかけて、夫婦の生活で目立った事件は何だっただろうか。まず、結婚式からかぞえて一年より一日少ない日に、アシルが生まれた。彼が十分に手をかけて育まれたことはうたがいがない。若い母親はこの愛の結晶を愛した。そのうえ、アシルクレオファスはこの子に自分自身の洗礼名をあたえて、自分の周囲の人たちに、彼がこの第一子をやがて他の子供も生まれるだろうが自分の跡継ぎ、一家の未来の長、とみなしていることをはっきりと表明した。ここにわが息子がいる、まあ私自身がと言ってもよいが、今日は私の反映であり、明日は私の再来である。母親はこの偏愛を知って自分もそれを分有した。彼女は自分の息子のなかに、ずっと昔に死んだと思われていたのが、ついに蘇った、自分の夫の、心の武装を解いたやさしい幼少期を愛した。これほど行きとどいて心をこめた心遣いの的であったアシルは、注文通りの、健全で、従順で、利発な子供であった。少し後には、この子供に読み書きを教えることは母親にとってのたのしみとなった。 5

長男アシルの誕生が夫婦の幸福の原因であったことがよくわかる。問題は次の文章であろう。

その間に父親は妻を二回みごもらせた。妻は二人の男子を生んだのだ。二度とも何にもならなかった。彼らは幼くして死んだから。わたしをおどろかせるのはたしかに以下の点である。たった一度の子供の夭死でも一般に両親を不幸のなかに投げこむのに十分なのだ。フローベール家の場合、それがつぎつぎに二度生じた。それはこの人々をながい間荒涼とした気持にさせ、この最初の住居に対して怖気をふるわせるのに十分な事柄である。さて、三十年後に、フローベール老夫人は、なつかし気にリュ・デユ・プチサリュにやってきて、昔の住居のまえに足をとめて、自分がそこで味わった幸福のことをたえず思い出すことを好んだ。彼女が言うように、彼女の夫婦生活を二つに分つならば、〈市立病院〉に居を定める以前には、彼女は三人の息子をもうけたが、そのうちの一人だけが生き残った。居が定まった後にはこの比例が逆転する。彼女がつくる三人の子供のうち、一人だけが死ぬのである。それにもかかわらず、彼女はわれわれに告げる。こうした身にこたえる挫折にもかかわらず、自分はリユ・デュ・プチサリュに住んでいた最初の七年間に、真の幸福を味わい知った、と。 6

サルトルはここで最初の7年間に二人の子供が死んで、後半の市民病院では一人だけが死んだ、それでも前半の方が幸せだったと言うのだ。その理由は以下に述べている。

こうしたことは一体どこから生じ得るのだろうか。一つの点がわたしには明白であるように思える。死者たちは最初の七年間について彼女の心に嫌悪感を生じさせることはできなかったし、また生者たちもそれにつづく歳月に彼女を愛着させることができなかった。それでこの心の天秤においては子供の重みは重要でなかったにちがいない、ということだ。カロリーヌ・フローベールの幸不幸はただ一人の人物に左右されていて、それは外ならぬ夫アシルクレオファスであった。ルイーズあての手紙のなかでこのことを証言しているのはギュスターヴ自身である。「母はぼくの父親を一人の女が一人の男をかつて愛し得た最大限に愛していました、それも彼らが若かったときというのではなく、最後の日まで、結ばれてから三十五年後にも」 7

「祖母は、ほとんど敬虔とも言える重々しい声で告げたものである、『ごらん、あそこで私の一生のうちで一番楽しかった歳月が過ぎて行ったんだよ』」というフローベール夫人の執着は、サルトルがこだわる自分の生まれ変わりとしてのカロリーヌ二世もすでに生まれていたので、長男と長女が立て続けに生まれて、幸福の絶頂だったという説明が見事につくとJoung-Rae Ji 氏は言いかったのだろう。長女は夭折してしまったが、悲嘆に暮れるまもなく立て続けに男の子3人を産み、最後に待望の女児が授かったのだから夫人のギュスターヴに対する冷たい仕打ちというのはサルトルの誤解だというのだろう。

しかし、最初に授かった自分の身代わりの女児を引っ越し後に失っているとしたら、彼女の喪失感は大きいだろうし、その後、末っ子になって生まれたカロリーヌを授かったことは最初の女児の身代わりを得たようで余計に幸せを感じただろうことは容易に想像がつく。だから、サルトルは長男は特別の存在、アシルクレオファス二世として別格で、その他の子供は十把一絡げに過ぎなかったと言うのはあながち間違っていないのではないかと思われるのだ。だから、「それでこの心の天秤においては子供の重みは重要でなかったにちがいない、ということだ。カロリーヌ・フローベールの幸不幸はただ一人の人物に左右されていて、それは外ならぬ夫アシルクレオファスであった」というサルトルの考え方は次の文章でわかる。

個人は非本質的でかりそめの様態であり、家族的共同体こそみずからのうちに諸様態を生みだしかつ吸収する実体なのだ。このいささか割切った智慧ほどカロリーヌのうえに好い効果をもたらしたものはなかったことにうたがいはない。彼は彼女に、おそらく、お前はこの世に«morituri»*を生み出すのだと説き聞かせたのだ。このラテン語と同じ意味のフランス語をわたしは知らないので、こう呼ぶのだ。彼女は子供たちをみごもっているとき、みずからの胎内においてまでもそんな風に感じたのである。

*ゲーテも同様であった。彼は自分の息子の死を告げられたとき、平然と答えた。「私は自分が死すべき者をつくり出したことを知っていた」と。 8

「前世紀(19世紀)の初頭においては、乳幼児がまるで蝿のように無造作に死んでゆくので、彼らをあまりに愛しすぎないことがよいとされて」いて、「一家を永久に存続させるためには多くの子供が必要であり、一人の生者をつくるためには多くの死者が要る」のであった。サルトルはデュメニルの報告に基づいて1812-20年の9年間に3人の子供(1813年アシール、1814年男児、1816年男児)を産み、そのうち2人は夭死したこと、18211824年の3年間に3人の子供(1821年ギュスターヴ、1823年男児、1824年カロリーヌ)を産んだことを確認している。それがこの表現になっている。

九年間に三人の子供であり、ついで四年足らずの間に三人である。気乗りのしない状態から、ひどく熱心だった時期へ移ったわけだ。 9

しかし、アンドリュー氏の報告では6人の子供は(1813年アシール、1816年最初のカロリーヌ、1818年男児エミールクレオファス、1819年、男児ジュール・アルフレッド、1821年ギュスターヴ、1824年カロリーヌ)となっており、ほぼ切れ目なく出産・育児を継続していることがわかる。その意味では前の文章は出産育児の時期を「気乗りのしない」時期と「ひどく熱心」な時期に明瞭に分割する根拠は存在しないことになる。そうすると、ギュスターヴが生まれる時期にフローベール夫人の焦りを示す次の文章もサルトルの誤認になるのだろうか。

不幸な歳月のはじまりがやってくる。大きらいな〈市立病院〉によって、彼女は多忙すぎる夫をほんのわずかしか引き止めておけないことを思い知らされた。カロリーヌは、ふたたび父親によってフラストレーションを起こさせられる。彼女はそれと知らずに、この我慢を通して、自分のひとりぼっちだった幼少期、フルーリオ博士の無言の非難をふたたび見出す。はじめて彼女は代償がほしくなった。それはただ一つしかない。彼女の不幸によって厳密に規定されたたった一つの代償、つまり一人の娘である。彼女がそのことを〈主人〉を前にしてあえて口にする勇気があったかどうかは、われわれは決して知り得ないだろう。確かなことは、彼女が自分の気持を分ってもらえたことだ。アシルクレオファスはただちに受け入れたようだ。娘かい、結構だ、彼女には娘をもたせてやろう。まちがってお腹に宿ったぶしつけな男の赤ん坊たちや、母親が自分の腹を痛めた分身に伝えた脆弱さに対抗する、ただ一つの対応策がある。つまりすべてを帳消しにして、生命力のある女の子をこの世にもたらすために、必要なかぎりせっせとふたたびはじめることである。アシルクレオファスは、この女の子を求めての努力の最中に男の子が生まれることも大いに期待していた。彼の牡としての生殖能力の面目もかけられていたから。けれども、とりわけ彼は早く済ませてしまいたかった。彼ら夫婦には、五、六年は余裕があるが、それ以上はほとんど無理だ。急がないと、最後に生まれる子供たちは老人の子になってしまう。こうしてギュスターヴは、新しい家族計画の最初の成果として生まれた。彼の不幸は家族内のこうした移転直後の状勢を身にひき被ったことである。 10

これは決してサルトルの誤解とも言い切れないだろう。

前の対比に立ち戻ろう。九年間に三人、ということは、この二人の愛する人たちがのんびりしていたからで、彼らが同衾していたから子供ができたのだ。四年間に三人の子供とは、この親たちが、あせって子供を作るために共臥をしたということだ。その後は、満足してしまい倦怠も感じて次第に間遠くなるがそれでも何回か抱擁をくり返しはしたにちがいない。 11

さて、この問題について私の結論を述べる時間になった。この著者の2つの証拠の対比の努力は多としたい。デュメニルの報告で決まりかと思っていたフローベール夫妻の出産とその時期について、新しい証拠を発見して見事な対比図を書いてくれた。リュシアン・アンドリューの証拠のほうが正しいだろうと私も思う。アンドリュー氏は「フローベール友の会」に勤務する学芸員として貴重な出生証明の記録を丹念に調べ上げただろうし、デュメニルの 1932の著書より30年も後の記事だからより詳細で前者の間違いを正したということはよく分かる。だから1812年から1824年までの「ルーアン地域のフローベール家の住居」はこの記事で決まりだ。サルトルは間違った報告をもとに彼の仮説を築き上げたことを認めざるを得ない。さて、サルトルの側からの意見を言えば、1962年の記事だから、『家の馬鹿息子』を書く時期には参考にする可能性はあったとはいえ、デュメニルの本のように普通に書店で購入できる本と違って、「友の会」会員に配布される小冊子に掲載された記事をサルトルが眼にする可能性は極めて少ないだろうということだ。フローベール研究者のなかでも一部の人間しか眼にしないような文章を参照しなかったと言われても困るだろう。だから、デュメニルの本に拠ったサルトルの仮説を非難するのはお門違いだと思う。

私は1983年当時、アレクサンドル・デュマの研究をしていて、そのときパリ郊外のマルリー・ル・ロワに本部を置く同じような組織 Société des amis d’Alexandre Dumas「アレクサンドル・デュマ友の会」に入会して毎年定期冊子を郵送してもらっていた。フローベール・モーパッサン友の会はルーアンに本部があるようだが、デュマ友の会は当時から会長がアカデミー会員のアラン・ドゥコー氏で、事務局長のクリスチアンヌ・ディグビー(ご主人はニーヴ・ディグビーといってイギリス人貴族でデュマ・フィスの邸宅を買って住んでいた)に招待されて、私は1984年、その邸宅に泊めてもらったことがある。その会ではパリ郊外 Le Port-Marlyにあるデュマの建てたモンテ・クリスト城を守っている組織である。有力会員のなかには大学教員も参加して、定期刊行物に論文を投稿するので、友の会と言っても単なる趣味人の集まりと馬鹿にはできない。ただし、そうは言っても、いくらサルトルがフローベールを研究しているからと言ってこの論文にまで目を通せというのは無理があるだろうと思う。

次の文章を読んでみよう。

ついで、凪の状態がつづく。しかも母親はまだ若かった。三十一歳である。だが関係ない。家族はもう十分だし、生みの父はもはや決して子供を作ろうとはしないだろう。フローベール家の夫婦はもはや愛の営みをしないのだろうか。前の対比に立ち戻ろう。九年間に三人、ということは、この二人の愛する人たちがのんびりしていたからで、彼らが同衾していたから子供ができたのだ。四年間に三人の子供とは、この親たちが、あせって子供を作るために共臥をしたということだ。その後は、満足してしまい倦怠も感じて次第に間遠くなるがそれでも何回か抱擁をくり返しはしたにちがいない。けれどもそれは目的をもたず、たいしたよろこびも与えるものではなかった。少なくとも博士の気持はそんな風であった。夫人の方が閨房の快楽にそれほどすすんであきらめをつけたかどうかわたしに確信はない。しかし何と言うべきだろうか。子供を作らぬ閨房の快楽は、夫人を慣れさせたことだろう。彼女は、快楽は家系を永続させることの必要性によって正当化されるべきだと主張していた。この夫婦は文字通り家族計画にしたがって行動してきた。それで、肉の仕事が完成され、子供たちが出生してしまうと、肉の逸楽そのものを求めることは罪ぶかいことになったはずだ。

それで、肉の仕事が完成され、子供たちが出生してしまうと、肉の逸楽そのものを求めることは罪ぶかいことになったはずだ。

それにしてもどうしてカロリーヌの生まれた後では止めてしまったのか? その点だが、理由は明らかで、わたしはすでにそれを語った。つまりフローベール夫人は娘が欲しかったので、それが得られたとき、打止めにしたのだ。フローベール夫人は、夫が彼女にギュスターヴを産ませたときこうした考えをすでに頭の中にもっていたと考えるべきだろうか。わたしはそう思う。 12

ここでサルトルが書いていることは、二代目の長男アシール、そして(スペアの)次男ギュスターヴ、妻の望んだ末娘カロリーヌ、生き延びた兄弟はデュメニルもアンドリューも同じで、その後、完全に打ち止めにしたということである。ジ・ヨンレ氏の宣告にも関わらず、サルトルの「家族計画」の根幹は全くゆるぎはしないだろう。たしかに「九年間に三人、ということは、この二人の愛する人たちがのんびりしていたからで、彼らが同衾していたから子供ができたのだ。四年間に三人の子供とは、この親たちが、あせって子供を作るために共臥をしたということだ。」というような素敵なフレーズが台無しになってしまうけれども、それでも大筋には変わりがないのだ。

実は問題は夭折の子どもたちの死亡順とか男女差とかにあるのではない。問題は母親としてのフローベール夫人の育児の様態にあるのだ。サルトルは育児の本質について次のように書いている。

これは、生まれた最初の日から、私の他者性についての受動的経験を通しての私自身の発見によって〈他者〉がそこに拡散して存在しているからである。他者性についての受動的経験を通して、とは、私の欲求に奉仕する外部の適切な力による、私の身体にくり返して加えられる取り扱いを通して、という意味である。この水準においてさえも、それがいかに初歩的なものとはいえ、愛情が求められる。あるいはむしろ、受け入れられる心遣いが愛情なのだ。この契機において、子供が、拡散している他者性によって、また他者性に対して、おだやかな外と内との環境の中で、自分を把握できるようだと上首尾なのだ。欲求は子供自身からくるが、彼が自分の人格に付する最初の関心については、彼はそれを自分がその対象である心遣いから得る。別の言葉でいうと、もしも母親が彼を愛していれば、彼は自分の対象存在を、自分の、愛される存在、として見出す。次第に明らかになってゆく一人の他者を通して、自分自身にとっては主体的対象である子供は、自分自身の眼に、日常になじむ作業の絶対的目的として、一つの価値として映ずるようになる。心遣いによる乳呑み子の価値化は、やさしさが表われていればいるだけいっそうふかくその子供にとどく。母親が彼に話しかけると、子供は言語作用に先立ってその意図を把握する。母親がほほえみかけると、彼はその顔そのものよりも前にその表情を認識する。子供の小さな世界は流星が飛びちがっているが、その流星たちは彼に信号を送り、その重要な意味はとりわけ彼に母親の行動を献げることである。この怪物は絶対君主であり、つねに目的であって、決して手段であることはない。子供がその生活の中で、生後三ヵ月、あるいは六ヵ月に、こうした自負心にみちた幸福を一たび味わい得たならば、彼は男 13になる。彼はその後の全生涯を通じてその支配することの至上のよろこびをよみがえらせることもできないし忘れ去ることもできない。しかし彼は、不運のさなかにおいてまでも、一種の宗教的楽天主義を保つことだろうし、その楽天主義は自分の価値についての抽象的で心平らかな確信にもとづいている。困窮の身でありながら、それはなおも一種の特権者である。このようにして始まった事件については、われわれは、いずれにせよそれはフローベールの事件とは同日に談ずるべきではない、と言うだろう。 14

難しい言い回しであるが、簡単に言えば、乳飲み子のとき、人間は自意識や記憶すら定かではない時期でも、すでに母親の愛情を感じているものであり、そうやって愛情を受けた人間は不運のさなかにおいてでも、一種の宗教的楽天主義と自分の価値の確信をもつ特権者だということである。サルトルはギュスターヴの受けたであろう育児についてこのように書いている。

わたしは白状するが、これは一つの作り話である。事情がこんな風であったと証すものは何もない。そしてもっとわるいことに、そうした証拠が欠けていることは−−証拠とは必ず独自的な事象であるはずだが−−われわれが話を作りだすときにさえも、図式的傾向や一般性の方へ偏らせてしまう。わたしの作る物語は乳呑み子たちにあてはまるが、特にギュスターヴにはあてはまるわけではない。だがかまわぬ。わたしは、次に述べる唯一の理由によって、物語を果てまでみちびきたいと思った。いささかも負け惜しみでなく言うのだが、真実の説明は、わたしが作りだした説明と正反対のものであると考えてみることもわたしには可能だ。だがいずれにせよ、その説明はわたしが示すものと同じ道を通らねばならぬであろうし、わたしが決めた領域、つまり身体、愛情という領域の上でわたしの説明に反論することにならないでは済まぬだろう。わたしは母親の愛情について語った。新生児に対して他者性の対象的カテゴリーを固着させるのはそれであり、生後の何週間かに、乳房のなめらかな肉をそれを認められるようになるや否や他者として感ずることをその子供に可能ならしめるのもそれなのである。子供の親への愛情−−口唇性欲の段階は、生まれおちると同時に〈他者〉に出会うものであることは自明であり、その限界と強度とを定めるものは母親の行動であり、その内的構造を決するのもそれである。ギュスターヴは母親の冷淡さによって直接条件づけられる。彼は孤りで欲望をもつ。食肉に向かっての、性的でありかつ摂食的である彼の最初の躍動は、愛撫によって彼の方へ反照されることがない。生後一ヵ月、四ヵ月に、またその零歳の一年間に今や甘美さの漠とした堆積である、母なるものとして認識されたその形態が、そちらの方から子供の愛撫やほほえみを乞い求めるようなことは、起こらぬか、あるいはほとんど起こらぬだろう。子供は好調な消化用の管であることを要求される。それだけのことだ。いかなる運動も外からそれに応えぬ場合、性的欲動ほど孤独なものはない。これはど受動的なものはない。 15

ギュスターヴ少年はやっとずいぶん遅れて、きわめて要領わるく伝達することをまなぶ。母親の心遣いのせいで彼には伝達したいという気持もその機会も与えられなかったのだから。彼はそれでパトス的なもの、つまり、身に蒙りながら表にあらわれていないもの、の内部に閉じこめられている。なぜなら大切な点は次のことである。つまり、能動的情動はそれが生まれるときに公的なものであって、それは、〈他者〉がすでに存在している世界に生まれ−−この他者とは、対象性の拡散している性格としてではあるとしても自己を宣言し、脅迫となり、祈願となり(「きみがぼくにどんな仕打をしたか見てくれ給え」)、プラクシスによって自分の寿命を引き延ばそうとし、それはいわば自分の姿を他人に見せつけるために殉教者と化する暴力である。 16

サルトルの考えでは、乳飲み子のとき、人間は自意識や記憶すら定かではない時期でも、すでに母親の愛情を感じているものであり、そうやって愛情を受けた人間は不運のさなかにおいてでも、一種の宗教的楽天主義と自分の価値の確信をもつ特権者だということである。フロイトの口唇期の理論に対するサルトル的解釈なのだろう。サルトルによれば、ギュスターヴの受けた(であろう)育児が、生涯を通じるフローベールの性格を決定する最初で決定的な要因なのである。私の考えでは、乱暴な言い方をすれば、『家の馬鹿息子』の第一分冊はこれを確定するために長々と綴られた傍証の山なのである。

Notes:

  1. https://journals.openedition.org/recherchestravaux/221 지영래, 読み方は、ジ・ヨンレらしい。http://faculty.korea.ac.kr/kufaculty/jimage/index.do
  2. https://www.abebooks.fr/Gustave-Flaubert-lhomme-loeuvre-RENE-DUMESNIL/265253666/bd
  3. https://www.amis-flaubert-maupassant.fr/article-bulletins/030_009/
  4. 『家の馬鹿息子』I、87ページ。
  5. 同上
  6. 同書、87-88ページ。
  7. 同書、88ページ。
  8. 同書、94ページ。
  9. 同書、136ページ。
  10. 同書、138ページ。
  11. 同書、136ページ。
  12. 同書、136ページ。
  13. このフレーズはQu’un enfant puisse une fois dans sa vie, à trois mois, à six, goûter ce bonheur d’orgueil, il est homme: となっていて、il est hommeを訳者は「男になる」と約している。私の考えではこのhommeは「男」ではなく、「人間」という意味ではないかと思う。男女の性差ではなく、フローベールが「monstre怪物」と言われるのと対比して「人間」だと言うのではないだろうか。母親からの愛情を受けなかった子供は「人間になれずに怪物になる」という文脈での記述ではないだろうか。
  14. 同書、146ページ。
  15. 同書、146-7ページ。
  16. 同書、145ページ。

『家の馬鹿息子』の翻訳について

サルトルの『家の馬鹿息子』の翻訳の話をしよう。

まず、原書は3巻構成になっている。

英語版のThe Family Idiot: Gustave Flaubert, 1821-1857は全部で5巻構成になっている。

出版年は、Volume 11981, Volume  2 1987, Volume 3 1989, Volume 4 1991, Volume 5 1994となっていて、第1巻が1981年で最後の第5巻が1994年だから、13年間かかったことになるが、しかし、3000ページにも及ぶ原書の翻訳者はCAROL COSMANキャロル・コスマンという女性翻訳者の単独翻訳だというのが素晴らしい。

 

 

 

彼女のことを知りたいと、検索で発見したのが下の記事だが、この記事はヘブライ語聖書の翻訳に対するKoret Award (コレット賞)の受賞者としてロバート・バーナード・アルターを紹介する記事だ。彼は、1935生まれで1967年以来カリフォルニア大学バークレー校のヘブライ語および比較文学の教授である。英語版第1巻のTRANSLATOR’S NOTEを読むと、finally my husband Robert Alter, whose patience and occasional participation have been greatly sustaining.「最後に、私の夫ロバート・アルターの忍耐心と時折の参加が大いに支えになりました」と書いてあって、同じ写真に写っているこの二人が夫婦であることがわかったのだ。夫婦が別姓だとなかなかわかりにくい。

確かなことはわからないが、この夫妻はきっと共々ユダヤ人であることはまず間違いあるまい。

Alter talks about Bible translation

かたや日本語の翻訳のことを調べてみた。

家の馬鹿息子 1―ギュスターヴ・フローベール論(1821ー1857) 単行本 – 1982

家(うち)の馬鹿息子―ギュスターヴ・フローベール論〈2〉 単行本 – 1989

家の馬鹿息子〈3〉ギュスターヴ・フローベール論(1821年より1857年まで) 単行本 – 2006/

家の馬鹿息子 IV: ギュスターヴ・フローベル論(1821年より1857年まで) 単行本 – 2015/

日本語訳の方は複数の翻訳者が分担して翻訳していて、原文の3巻のうち2巻だけしか翻訳されていない上に、第1分冊から第4分冊までの出版に35年もかかっていて、しかも第2分冊目と第3分冊目の間が17年も要している。第5分冊の出版は目処が立っていない。

第3分冊の解題で訳者代表の海老坂武氏が次のように書いているのは異常である。

「この第三巻で、原書全体の約三分の二を日本語訳にしたことになる。原書が刊行されてから三十五年、第二巻が翻訳されてからは十七年の間隔があいている(そしてその間に、十五年前に訳稿を提出されていた平井啓之氏が亡くなられた)。訳者たちの、とりわけその一人の怠慢のために刊行が遅れてしまったことを、著者ならびにこの本の刊行を待たれていた読者の方々に心からお詫び申しあげたい。また、こうした遅れのために、この巻に続くべき二冊(四巻、五巻)が出版されないとなると、訳者としてはますますその責任を感じざるをえない。
他方、出版社の責任も重大である。三名の訳文がほぼ十五年前に出来上がり、一名だけが未提出という長期にわたる異常な事態を放置せず、積極的に解決へ向けての努力をすべきではなかっただろうか。サルトルは『嘔吐』をはじめとしてその生涯に何回か〈全体化〉を試みている。『家の馬鹿息子』はその最後のもので、しかももっとも大がかりな〈全体化〉の試みである。その意味で、〈サルトル思想〉とされるもののすべてがこの作品の中に詰め込まれていると言ってもよいであろう。『家の馬鹿息子』にふれない〈サルトル思想〉の解説はほとんど意味をもたない、と私自身は考えている。そうであるだけに出版の中断となるとこれは大変残念なことであり、大きな知的損失である。若い研究者たちがなんらかの形で後を引きついで完訳にこぎつけることを願わずにはいられない。」(家の馬鹿息子〈3〉ギュスターヴ・フローベール論、753ページ)

この訳者解題は異様である。1名の訳者が17年出版を遅らせたのだとしたら、その訳者の責任は重大である。ただ、私には海老坂武氏がどうしてその訳者の名前を明らかにしないのかが異様に映る。 平井 啓之、海老坂 武、 鈴木 道彦、蓮實 重彦の4人のうち、蓮實 重彦氏だとなぜ名指ししないのか私には理解できない。17年も出版を遅らせておきながら、シャーシャーとして『「ボヴァリー夫人」論』などという単行本を 2014年に出しているのだから何をか言わんやだ。その間、サルトルの翻訳を滞らせて自分の原稿を書いていたのだとしたらその罪は深い。しかも、まだ第5分冊は未刊のままである。

読者がサルトル自身への興味を失うに十分な時間をロスさせた上に、翻訳が未完では誰が既刊の4冊の『家の馬鹿息子』を買ってまで読もうというのか?これではサルトルが浮かばれまい。

多分、第3分冊の遅滞の最中だっただろうか、私は鈴木 道彦さんに手紙を書いて、翻訳者に加えてくれないかと頼んだことがあった。丁寧に断られてすっかりサルトル研究の熱が冷めてしまったことを思い出した。今思えばそれが受け入れられていたら、17年の遅れの責任の一端を負わされていたかもしれないと思うと、断られたことが逆に幸いだったかもしれない。

 

『ボルドーの秘宝』に関連して

『ボルドーの秘宝』を出版するに際して、何冊か参照文献を読んだ。

書名:  王妃エレアノール  著者名:  石井 美樹子/著 出版者:  平凡社
書名:  王妃アリエノール・ダキテーヌ  著者名:  桐生 操/著 出版者:  新書館
書名:  トルバドゥール詞華集  著者名:  瀬戸 直彦/編著 出版者:  大学書林
書名:  アキテーヌ公ギヨーム九世   著者名:  中内 克昌/著 出版者:  九州大学出版会

上2冊は著者の奥さんが読み、下2冊は私が読んだ。

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ギヨーム9世(Guillaume IX、Guilhen de Peiteu、1071年10月22日 – 1126年2月10日)

 

 

 

 

 

中世フランス王国の貴族でアキテーヌ公(ギヨーム9世、在位:1088年 – 1126年)、ポワティエ伯(ギエム7世、在位:同)。ギヨーム8世ブルゴーニュ公ロベール1世の娘イルデガルドの子。ギヨーム・ド・ポワチエオック語ではギエム・デ・ペイチュとも呼ばれる。

 

今どきのネットは、しばらく前ならその存在も知らなかったような貴重な資料が、テキストどころか音声でも発見できる。

まさか、トルバドゥールの歌が聞けるとは驚きだ。発音は現在のフランス語よりはイタリア、スペインの音に近い。先ず鼻母音がなさそうだし、語尾が開放音節ばかりである。

ギヨーム9世から孫のアリエノール・ダキテーヌにかけてパリを中心とした北フランス(オイル語)とボルドー、ポワティエを中心とした南フランス(オック語)はきっばりと別れていて、南フランスのアキテーヌ公国は現在のフランス全土の4分の3の領地を持ち、フランス王国より3倍も大きい領土を所有していた。

ギヨーム9世は自身が最古のトルバドゥールと言われた人物で、代表作が以下の

« Farai un vers pos mi sonelh »(オック語)(眠りの中で歌を作ろう)である。

以下の翻訳は『アキテーヌ公ギヨーム九世』の中内克昌さんによる。

内容がいかにもおおらかなものであることに驚く。後のボッカチオの艶笑譚『デカメロン』に引き継がれるゴロワ的なユーモアだ。

ーーー

ひとつ詩を作ろう、俺は眠ってはいるが

日に当たりながら歩いているのだから。

世の中には性悪な女たちがいるものだ、

   それが誰だか教えよう、

それはな、騎士たちを愛することを

   さげすんでる女たちだ。

言語道断のひどい罪を犯しているのだぜ

誠実な騎士を愛さぬ女というのは。

恋の相手が修道士や聖職者というのなら、

   お門違いというものだ。

当然そんな女は火あぶりにすべきだろう

   燃えさかる炎に掛けて。

リムーザンの向こう、オーヴェルニュへ

俺はひとりお忍びで道をたどっていた。

その折に俺は出会ったのさガラン氏と

   ベルナール氏の細君に。

二人は愛想よく俺に挨拶をした、

   聖レオナールさまに誓って。

一人がそこのお国言葉で俺に言った。

「神のお助けがありますように、巡礼さま。

そちらさまはきっとよほど尊い家門のお方に、

   お見受けいたしますわ。

だけど世間には仰山いなさるもんですわ

   瘋癲ふうてんさんたちが」

そこで聞きたまえ、俺が何と答えたか。

俺は彼女にこうともああとも言わなかった、

まともなことは何もしゃべらなかった、

   ただこう言ってやったのよ。

「ババリオル、ババリオル、

   ババリアン」とね。

アニェスがエルメッセンにこう言った。

「ついに会えたわね探し求めてたものと。

ねえ、お願いだから、泊めたげましょうよ、

   きっとこの人おしだもの、

あたしたちどんなことしようとこの人に

   暴露ばらされることないわよ」

一人がひそやかに我が輩の手をとって、

彼女の部屋の暖炉のそばに連れてった。

それはまあ実に俺はいい気分だったよ、

   火はよく燃えていた、

それで俺はほくほくしながら暖をとった

   たんとある炭火に当たり。

女たちは丸々肥った鶏を食わせてくれた、

はっきり言って二羽分以上はあったろうよ、

しかも料理人もいなければ皿洗いもいない、

   俺たち二人きりなんだ。

それにさパンは白いしワインはうまいし

   胡椒もたっぷりあった。

「ねえちょっと、この人油断ならないわよ、

わざと口をつぐんでるのよ、あたしたちに。

赤茶毛のニャン公を連れてきましょうよ

   さっそく今すぐに、

あれならすぐ化けの皮をはがしてくれるわ

   騙す気があるのなら」

アニェスがそこでそやつを探しに行った、

でかい図体の長いひげを生やした猫だった。

だから俺は、それがこっちに来たのを見て、

   おっかなびくびくだった、

俺の勇気もあわや失せるところだったよ

   そしてファイトまでも。

われわれ飲んだり食ったりしてからすぐ、

俺は女たちの御意ぎょいのまま服を脱いだ。

俺の後ろに彼女らはその猫を連れてきた

   たちが悪くて物騒な。

で、一人がそやつを俺のわきの方に引き寄せた

   かかとのところまで。

いきなり彼女が猫のしっぽをつかまえて

ぐいっと引っ張るとそやつは俺を引っ掻く。

おかげでこっちは百をも越す傷だらけ

   ほんとそのときは。

だが断固俺は身じろぎもせぬぞと構えていた

   たとえ殺されようとも。

「ねえちょっと」アニェスがエルメッセンに言う、

「ほんとにこの人おしさんだわ、間違いないわ。

それじゃあ早速お風呂の支度をしようよね

   そして楽しみましょう」

一週間とそれ以上俺はお世話になりました

  そのおゆどのでね。

俺が何度楽しませてもらったか教えよう。

実にひゃくはちじゅうはち回もですぞ、

おかげでこっちの脚のつけ根と用具のほうは

   あわやちぎれそうだった。

あとの痛さは口で言い表わせるものではない、

そりゃひどいものだったよ。

とても言い表わせないその痛さといったら、

   そりゃひどいものだったよ。

海老坂武『自由に生きる おひとりさまのあした』

海老坂武『自由に生きる おひとりさまのあした』を読んだ。

気になったのは谷崎潤一郎とサルトルのところ。

「朝吹登水子さんについて悔いが残る。朝吹さんとお付き合いするようになったのは、サルトルとボーヴォワールが日本を訪問したときである。二人は日本で三つの講演をおこない、いくつかの会合に出席し、日本各地を旅行したが、朝吹さんは、その間四週間、二人に付き添い、ガイド兼通訳の役をつとめられた。
[中略]
当時朝吹さんはフランソワーズ・サガンの翻訳者として、またエスプリのきいたエッセイの著者としてすでに世に知られていた。私ももちろんお名前は存知あげていたが、お目にかかったのは初めてだった。
[中略]
高齢者に会うときはいつもそういう覚悟を持たされる。いまでは、私に会う人にもこういう覚悟をしてもらっているのかもしれない。聞きたくて聞けなかったのは次のことである。サルトルとボーヴォワールが来日したとき、二人は谷崎潤一郎夫人にぜひ会いたいという希望をもっていた。これが実現し、朝吹さんが通訳をされたのだが、このときサルトルは谷崎の晩年の性生活についてこまかく質問をし、夫人も隠すことなく質問に答えた。
という話をある日朝吹さんから伺ったのだが、事柄が事柄だけにその内容をその場で尋ねることがためらわれた。そして結局そのままになり、そのときの会談の内容は誰知ることのないままに闇の中に消えてしまった。いったい、谷崎夫人はどんなことをしゃべったのか。谷崎の晩年の作品が作品であるだけに、これは大きな悔いの一つとして残っている。」
ボーヴォワール以外に何人もの女とタイムシェのセックスフレンドを持っていた老ドン・ファンならではの話が聞きたいのもだと私も思う。

140頁

もう一箇所は

「お祝いパーティーお断り

生活習慣だけでなく、生活信条のようなものも頑になっている。若い頃は人の結婚式にのこのこ出かけていったこともあるが、世にこれほど馬鹿げた集まりはないと思うようになって、ある時期からすべて断るようになった。

だいたい結婚式料理ほどつまらぬものはない。『シングル・ライフ』という本を出してからは、幸いなことに断る労すら必要なくなった。案内がこなくなったのである。

叙勲のお祝いの会とやらも二、三度声をかけられたが、これは結婚式以上につまらない。いったい人はなんで勲章をありがたがるのか。あるとき、かなり上のほうの勲章をもらった高名な小説家に「なぜもらったのか」と問いただしたことがある(叙勲は本人の同意を得てからなされる)。そしたら「お金だ」という答えが、このかなり裕福そうな小説家から返ってきた。たしかに彼のもらった勲章はお金つきなのだ。

しかし私は「嘘つけ」と心に思っていた。「世間に広く認められて偉くなったようでうれしい」と素直に言えばまだ可愛げがあるのに、自分の心の動きを〈お金〉にすりかえている。〈お金〉という言葉を出せば、受け入れられると思っているのだ。その姑息な計算を私は軽蔑した。たぶんその作家の辞書からは〈虚栄心〉という言葉がそっと消されているのだろう」

これは明らかにノーベル賞を取った大江健三郎だ。海老坂さんは大江健三郎と同い年で同じ東大仏文出身だからだが、片方はフランス語がからきしできないで小説で身を立て、海老坂さんは早くからサルトルの翻訳家として名を知られている。ノーベル文学賞の選定基準がさっぱりわからない私からすると、海老坂さんの感想はさもありなんという感じだ。

アレクサンドル・デュマの『キーンまたは狂気と天才』(1836年初演)の翻訳が完了

翻訳開始から四ヶ月弱かかりましたが、ようやくアレクサンドル・デュマの『キーンまたは狂気と天才』(1836年初演)の翻訳が完了し、本日版元に納品します。

サルトルが翻案した『キーン』(1953年初演)はすでに翻訳がありますが、原作のデュマ版はこれが初訳です。

19世紀前半当時のフランスのロマン派演劇の俳優フレデリック・ルメートルがイギリスの伝説的名優キーンの1833年の死にさいしてキーン自身を演じたいと願い、デュマが完成したのが本作品です。

イギリス皇太子の友人でデンマーク大使夫人を愛するキーン。舞台上でロミオとジュリエットを演じていたキーンは、伯爵の桟敷にいるエレナとプリンスの姿を認め、財産目当てで女優志願のアンナとの強制結婚を目論む悪徳貴族ロード・ミーウィルを罵倒しながら、舞台上で気絶する。さて、キーンの最後はどうなるでしょうか。

最初の写真はパリにあるフレデリック・ルメートルの銅像。次はドリュリー・レイン劇場でハムレットを演じるキーン。

シュークルットのレシピ

奥さんの小説の舞台がストラスブールということで、名物料理シュークルットを作れと言われて作ってみた。

参考サイトはここ

http://www.plaisirdelatable.jp/cooking/choucroute.html

以下に参考サイトの内容を引用します。

☆ 作り方

  1. 漬け込みです。
    まずキャベツを細切りにし、大きめのボールに入れ、粗塩25グラムを全体にまぶして、2-3時間そのまま置きます。
    水が出てきますね。この水は捨てます
    さらにキャベツを軽くもんで水をはかせ、水分をよく絞って、別のボールに入れます。
    400ccと200cc、チョウジ(丁字)の粉末少量を混ぜて、キャベツにかけ、
    ひと晩
    置きます。チョウジっていうのは、アジアのモルッカ諸島、フィリピン、またはアフリカに
    生える植物の、うす紅色の花のつぼみを乾燥させたもので、かたちは
    褐色の折れくぎ状のもので、とてもとても強い香気をもっています。
    他の香料とブレンドして、肉料理に使用することが あります。
    2.キャベツの煮込みです。
    さて、翌日。ベーコンを細切りにして、なべの底に散らし、漬け込んだキャベツを平に入れます。

 

 

 

 

 

 

 

キャベツの漬け汁、水、固形スープを砕いて入れ、コショウをふり入れます。
ふたをして、弱火で30-40分間、 キャベツがやわらかくなるまで煮るのです。
途中、煮詰まるようでしたら、水を少したしてください。

煮上がりぎわに、ウインナー、またはフランクフルトソーセージ、ハム、コーンタン
(牛の舌の塩漬けにしたもの)などを入れてあたため、なるべく素朴な感じ
大皿に盛って食卓へ。 お好みで取り分け、召し上がってください。

 

 

 

 

 

 

ジャガイモを姿のままゆで、粉ふかしにしてつけ合わせるのも、かえって田舎風でいいでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もう一つはこのサイト。

https://jp.ambafrance.org/article7524

 

無声映画”Kean”について

Alexandre Dumas の原作によるKeanの翻訳の過程で、ロシア革命期に亡命したロシアの俳優や映画人たちがパリで制作した無声映画のなかに『キーン』があることがわかった。発売元はFlicker Alleyというロサンゼルスにある映像販売会社。

DVDはFrench Masterworks: Russian Emigres in Paris 1923-1928 – 5 Iconic Films Albatros Productionsである。Keanはこのコレクションの中に収められている。

12月27日に会員登録してオンラインで購入、1月10日には到着した。

 

 

 

 

 

 

 

Keanの内容についてはカリフォルニア在住のFRITZI KRAMERによる詳細な解説に任せるとして、私としてはざっとした印象を書いておきたい。

役のキーンは亡命ロシア人俳優のイワン・モジューヒンが演じている。本編の字幕はフランス語が入っていて、主としてデュマの原作から抜粋している。英語の字幕もリメイク版として付けられている。内容はデュマの『キーン』にプロットは借りているものの、エンディングは喜劇として書かれた原作とは全く異なって、キーンは女優志望の若いアンナとニューヨークに旅立つという幕切れではなく、キーンが恋したデンマーク大使夫人のエレナに看取られながら死の床で事切れるという悲劇的な最後で終わる。

無声映画の完成は1923年で、デュマの死亡年は1870年というから、著作権の消滅を待って公開したものかもしれない。

なお、FRITZI KRAMERの解説中にデュマ原作の英語翻訳の情報があってありがたい。

アメリカズ・ゴット・タレント 「シャンデリア」

アメリカズ・ゴット・タレントを好きで見ている。

今回はSia Kate Isobelle Furlerの「シャンデリア」を歌うピエロの扮装をした男性が秀逸なので紹介したい。

シーアの原曲のオフィシャルトラックはこれ。

これはすでに人を驚かすパフォーマンスだが、AGTのクラウンの歌唱も感動モノだ。

それがこちら。


なぜか涙を誘う歌声とパフォーマンスだ。

日本語訳と解説はこれが詳しい。

SIA(シーア)シャンデリアの和訳の解釈!歌詞に込められた意味とは?

 

謹賀新年

あけましておめとうございます。

今年の最初の出版はアレクサンドル・デュマの『キーン 狂気と天才』です。アレクサンドル・デュマの戯曲は当社で、『アンリ三世とその宮廷』、『アントニー』、『ネールの塔』、『ベル=イル嬢』に次いですでに5作目になります。

『キーン』はサルトルの戯曲として有名で翻訳もありますが、実はアレクサンドル・デュマの原作を翻案したものです。今回、アレクサンドル・デュマの原作を翻訳して出版するべく作業をしています。どうぞご期待下さい!