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『南フランス物語』翻訳秘話

フランス, フランス文学, フランス語翻訳, 出版, 文学

アレクサンドル・デュマの『南フランス物語ーフォンテーヌブローからマルセイユまで』(仮題)を翻訳している。全31章のうち、第21章に取り掛かっている。3分の2近くに差し掛かった。今回はほんの小さなエピソードでも、歴史家デュマの蘊蓄うんちくが、翻訳者泣かせであるかを紹介しよう。しかし、どれほど解明に困難でも、インターネットの検索で、どうにか解決に至ることを示したい。これだけの苦労が、翻訳の数行の注で済ませなければならないので、後学のためにあえてここで記事にしておこう。

エーグ=モルト

 

 

 

 

 

 

その文章は以下である。

原文)Au XIIe siècle, la ville d’Aigues-Mortes, protégée par le couvent de Psalmodi et par les seigneurs de Toulouse, était devenue une cité maritime. S’il faut en croire Bernard de Trévise, chanoine de Maguelonne, auteur du roman de Pierre de Provence, et qui vivait vers 1160, elle recevait dans son port des navires de Gênes, de Constantinople et d’Alexandrie. Il est vrai qu’Astruc, dans ses mémoires sur l’histoire du Languedoc, a prétendu que ce passage avait été intercalé par Pétrarque. La chose est possible ; mais il n’en fallait pas moins qu’Aigues-Mortes eût une certaine importance, puisque saint Louis la choisit, vers la moitié du XIIIe siècle, pour y rassembler la flotte qu’il devait commander.

翻訳)十二世紀には、プサルモディ修道院とトゥールーズの領主たちによって守られていたエーグ=モルトの街は、海運都市になった。マグローヌの司教座聖堂参事会員であり、「ピエール・ド・プロヴァンス」という小説の著者であり、一一六〇年頃に住んでいたベルナール・ド・トレヴィーズを信じるなら、街はジェノヴァ、コンスタンティノープル、アレクサンドリアからの港湾船を受け入れていた。『ラングドック県の自然史の回顧録』の中で、アストリュックが、この一節がペトラルカによって挿入されたと主張したのは事実である。あり得ない話ではない。しかし、十三世紀半ばに聖ルイが指揮する艦隊をそこに集めることを選択したからには、エーグ=モルトにはもともとそれなりの重要性があったに違いなかった。

 

1)プサルモディ修道院にたどり着く手順だが、Psalmodiでインターネット検索すると、Abbaye de Psalmodyにたどり着く。原文のcouvent de Psalmodiと違いそうだが、abbayeとcouventは格の違いはあるが、修道院には違いない。日本語はないので、上のフランス語のwikipédiaを読む。

2)Bernard de Tréviseはそのままで調べると、qui vivait vers 1160、つまり12世紀に生きた人なので、すぐには見つからない。また、auteur du roman de Pierre de Provence、『ピエール・ド・プロヴァンス』という小説の作者という。しかし、ドンピシャのタイトルは見つからない。調べていくうちに、どうやらPierre de Provence et la belle Maguelonneというタイトルの小説らしいとわかる。さらに細かく絞っていき、https://fr.wikipedia.org/wiki/Légende_de_la_Belle_Maguelone Légende de la Belle Maguelone「美しいマグローヌの伝説」のウィキペディアにたどり着いた。それによると、プロヴァンス公爵の息子ピエール・ド・プロヴァンスとナポリの王女マグローヌの恋物語である。原作者は12世紀のマグローヌ司教座聖堂参事会員Bernard de Trèvesベルナール・ド・トレーヴ(綴りはBernard de Tréviseではなく)の小説であるという。ナポリ王女マグローネの評判に惹かれたピエールは遥々ナポリに出かけて恋に落ちる。二人は駆け落ちをするが、いくつかの苦難ののちにフランスで再会するというストーリー。作者のベルナール・ド・トレーヴは辿る先がない。

3)アストリュックの『ラングドック県の自然史の回顧録』が次なる問題だ。これはどういう問題だろうか?mémoires sur l’histoire du Languedocという本の著者だろう。調べてみると、Jean Astrucという人が書いた本だということがわかった。というのは、Google Booksにその現物があるからだ。それはMémoires pour l’histoire naturelle de la province de Languedocである。1737年に出版されている。ありがたいことに無料の電子書籍としてスキャンした本が手に入る。以下がそのスナップショットである。

 

 

 

 

 

さて、「『ラングドック県の自然史の回顧録』の中で、アストリュックが、この一節がペトラルカによって挿入されたと主張した」というデュマの文章を確かめるために、この本のなかで「ペトラルカ」を検索すると、2ヶ所当たった。どうやら左ページの脚注が問題の箇所らしい。

 

 

 

 

 

当該箇所を拡大してみると、以下である。

 

 

内容は以下である。

この港に関係することは、14世紀の初めにこの小説に手を加えた、モンペリエで法律を勉強していた有名なペトラルカによって追加されたに違いない。 ガリエル『モンペリエのイメージ』、第2部、113ページを参照のこと。

ここまで来て、ようやくこの長くもないパラグラフの翻訳ができるのだ。だから、翻訳という作業はかくも面倒なのである。しかし、それが正当に評価されるだろうか。