ミシェル・フーコー『狂気の歴史』の序文における誤訳について
まあ、とにかくミシェル・フーコーの日本語訳には誤訳が溢れかえっているので、日本語訳を読んでフーコーが理解できたと言っている人はいったい何を理解したのか聞いてみたいと常々思っていた。今回も重大な間違いを発見して今更ながら驚いた。
「わたしは事物がわれわれから自分を守るために生みだしている幻想を、事物からうばいとろう。そして事物がわれわれに譲り渡している分け前を、事物に残しておこう」田辺淑訳『狂気の歴史』(新潮社、1975年)15頁。
ガリマール書店版からは削られてしまったプロン社版の序文に見られる上の文章はフーコーがルネ・シャールから引用したものだ。昔、この本を読んでいたときにはもちろんプロン版が手に入るはずもなく、ルネ・シャールにも到達できなかったので、原文に当たることができなかった。しかし、今日のインターネット文化のお陰で(ありがたい時代になったものだ)ミシェル・フーコーのプロン社版『狂気の歴史』の序文が見つかった。それによれば、原文は次のようになっている。
«Je retirai aux choses l’illusion qu’elles produisent pour se préserver de nous et leur laissai la part qu’elles nous concèdent.»
これを田辺訳では「わたしは事物がわれわれから自分を守るために生みだしている幻影を、事物からうばいとろう。そして事物がわれわれに譲り渡している分け前を、事物に残しておこう」と、未来のことのように書いている。
もし原文が
Je retirerai aux choses l’illusion qu’elles produisent pour se préserver de nous et leur laisserai la part qu’elles nous concèdent.
と書いているのなら単純未来だが、原文はretiraiであり、laissaiである。フランス語を多少でも勉強した者なら、これが単純過去であることはすぐ分かるだろう。
訳すなら「わたしは物が人間から自分を守るために生みだしている幻想を、物からうばいとった。そして物が人間に譲り渡している分け前を、物に残してやった」とするべきだろう。ここで「われわれ」を「人間」と置き換えたのはフーコーの書きたかったことを考慮したからだ。また、事物は物、幻影は幻想と訳しておいた。illusionは幻想だし、chosesはフーコーの『言葉と物』の物だからだ。
単純過去を見誤ったのは従属文中のproduisentとconcèdentがどちらも直接法現在形なので、主文が単純過去であるはずがないと思い込んだからに違いない。しかし、従属文の時制は不変の事象の場合に現在形を使うのがフランス語文法なので、ここに時制上の矛盾はない。
こういう間違いは読者を惑わす。
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