L’Illusion commune『共同幻想論』フランス語版

2023年2月12日任意

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L’Illusion commune『共同幻想論』フランス語版
吉本隆明『共同幻想論』のフランス語版は電子書籍とプリントオンデマンド版(紙の本)による出版となっております。

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l’Illusion commune

このプレビューはBiB/i(EPUB READER on your Website)を使わせて頂いています。松嶋智さん、ありがとうございます。


内容紹介

概要

「文芸」誌に第一章「禁制論」を発表した2年後の1968年に出版された『共同幻想論』は、ヴェトナム戦争の激化のなかでまさに世界規模で起こった大学闘争のさなかで、日米安全保障条約締結10周年の1970年に安保条約の再締結を控えて、何かしらの思想で武装することを虚しく求めていた学生たちに大きな衝撃を与えた。しかし、あらゆる理論の誕生が遅すぎるか早すぎるかであるが、吉本の思考も当時は理解されないように思われた。

しかし、1961年に彼自身が発行した雑誌『試行』のなかで時事問題について書いき、少数の読者に対して彼の判断を示している。当時全世界で学生運動は政治運動の後に少数グループに分極化していき、次第に沈静化した。その政治事件とは、東京大学講堂での冬の騒乱、1968年の入学試験の中止、日本赤軍による日本航空便のハイジャック、1970年の三島由紀夫による航空自衛隊市ヶ谷駐屯地への侵入と割腹自殺、1972年の浅間山荘における連合赤軍と警察隊との銃撃戦であった。

吉本は、『共同幻想論』の出版の10年後、1978年4月に東京で「世界認識の方法」をテーマにミシェル・フーコーとのインタビューを行った。『共同幻想論』がついに学問的で国際的な水準で議論される時期が到来したと思われた。しかし、このインタビューを読んで、私たちは最後まで議論が空回りしていることが分かった。それも理の当然だった。なぜなら日本語に翻訳されたフーコーの本はほとんどすべて読むことができたのに、フーコーの方は西洋言語による吉本の本を一冊も読むことができなかったからだ。インタビューの最後に、フーコーはフランス語に翻訳されること、フランス語でない場合は英語にでも翻訳されることを願っていた。

それから10年後に私は翻訳をようやく完了して、大学の紀要に分載して出したが、この翻訳はフーコーという偉大な思想家の墓前への捧げ物にしかならなかったという思いだった。その後、1996年にボイジャー社のExpandBookによってCD-ROMの形で「出版」したが、残念ながら日本国内でしか販売できなかった。2013年、大学を定年退職するのを機に、出版社を立ち上げて電子書籍で世界に向けて『共同幻想論』フランス語版を出版することができた。さらに、2016年になってプリントオンデマンドにより紙による出版にたどり着いた。吉本隆明という日本の思想家の主著がようやくフランス語で世界中の人に読んでもらえる時代が来たのである。


日本語版目次

禁制論

馮人論

巫覡論

巫女論

他界論

祭儀論

母制論

対幻想論

罪責論

規範論

起源論


抜粋(第二章)

うたて此世はをぐらきを
何しにわれはさめつらむ
いざ今いち度かへらばや、
うつくしかりし夢の世に、
(松岡国男「夕ぐれに眠のさめし時」) )

柳田国男は、まだ新体詩人であったとき一篇の詩としてこれをかきとめている。雑誌『国民之友』に拠るこの年少詩人は、日夏耿之介の評言をかりれば、国木田独歩に推称される詩才をもちながら「その後の精進の迹を見せずに自分の学問的本道へ進んでしまった。」人物であった。

しかし柳田の学的な体系は、はたしてこういう詩からの転進だったのかどうかわからない。

「夕ぐれに眠のさめし時」とは柳田国男の心性を象徴するかのようにおもえる。かれの心性は民俗学にはいっても晨に〈眠〉がさめて真昼の日なかで活動するというようなものではなかった。夕ぐれに〈眠〉からさめたときの薄暮のなかを、くりかえし徴候をもとめてさ迷い歩くのににていた。〈眠〉からさめたときはあたりがもう薄暗かったので、ふたたび〈眠〉に入りたいという少年の願望のようなものが、かれの民俗学への没入の仕方をよく象徴している。

柳田の民俗学は「いざ今いち度かへらばや、うつくしかりし夢の世に、」という情念の流れのままに探索をひろげていったようである。夕べの〈眠〉から身を起して、薄暗い民譚に論理的な解析をくわえるために立ちどまることはなかった。その学的な体系は、ちょうど夕ぐれの薄暗りに覚醒とも睡眠ともつかぬ入眠幻覚がたどる流れににていた。そしてじじつ、柳田が最初に『遠野物語』によって強く執着したのは、村民のあいだを流れる薄暮の感性がつくりだした共同幻想であった。いまこの共同幻想の位相はなにかをかんがえるまえに、柳田が少年時のじぶんの資質にくわえた回想的な挿話に立ちどまってみたい。

柳田は『山の人生』のなかで少年時の二、三の体験をあげて空想性の強い資質の世界を描いている。そのなかの一つ、

それから又三四年の後、母と弟二人と茸狩に行つたことがある。遠くから常に見て居る小山であつたが、山の向ふの谷に暗い淋しい池があつて、暫く其岸へ下りて休んだ。夕日になつてから再び茸をさがしながら、同じ山を越えて元登つた方の山の口へ来たと思つたら、どんな風にあるいたものか、又々同じ淋しい池の岸へ戻つて来てしまつたのである。其時も茫としたやうな気がしたが、えらい声で母親がどなるので忽ち普通の心持になつた。比時の私がもし一人であつたら、恐らくは亦一つの神隠しの例を残したことと思つて居る。(「九 神隠しに遭ひ易き気質あるかと思ふ事」より) 


電子書籍による出版

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『共同幻想論』の原本はこちらから購入できます。現在、Kindle版も出版されています。

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Posted by hnakata